Jarno Trulli

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ヤーノ・トゥルーリ「栄光への序章」
 
Epi.0 「受け継がれる思い」 〜神の領域

時速150kmで、車速の劣る前車のスリップストリームに入ろうとした瞬間、ブレーキテストをくらわされる。
追突を避けるためブレーキングと同時にステアを切るが、ブレーキバランスを少し崩していたためハーフスピン。
カウンターで堪え凌ぐが左フロントがバースト、サイドウォールに張り付く寸前で奇跡的にストップ。
後続車による追突が無かったためか、赤旗は振られなかった。
そして男は”神の啓示”を感じ、勘の衰えとファンのことを考え、引退を決意した。

1998年のクリスマスイブまで1年11ヶ月に渡り毎週開催された、「御殿場ダウンヒル・オーバー180km/hレース」は閉幕した。
(いえいえ、ただの東名上り48ポストでの話です。:笑)
ファンは惜しむどころか「パパ、命が有って良かったね。」と引退を喜んだ。

思えばデパートの屋上の電気自動車に乗るのが、物心つく前から最大の楽しみだった。
そんな男が最初に手にしたのは赤と白のパイプフレームの足漕ぎゴーカートだった。
耳カバーの付いた茶色い鳥打帽の上に、少年忍者部隊の迷彩調コンバットヘルメットと水中眼鏡、
母親のスカーフを首に巻き、毛糸のレーシンググローブをした半ズボン姿の凛々しいレーサーは、今でもアルバムの中でセピア色の光りを放っている。

免許を取って半年位の18歳頃、奥多摩のワインディングロードでは、
ブラインドコーナーの向こうから昼間でも対向車の気配がはっきりと感じられた。
音が聴こえたわけでもない。が、確かな自信に満ち、対向車線をフルに使ってオーバーテイクしていた。
不思議に、「来るな。」と思った時には本当に対向車が来た。
だから、そんなドライブをしていても怖いと思った事は殆ど無かった。
背筋がゾクゾクするのが快感だった。
自分は特別な人間だ、『レーサーに成るために生まれて来たのかもしれない』と考えていた。
実際この頃、街道で出会った排気量の似通った車には、負けた事が無かった。
生沢徹の乗るカリーナGTにR246で臨んだ時も、バカには付き合ってられないと、彼は男の車を抜くのを諦めてしまった。
暫くバトルできると期待していた男には残念な事だった。
こういう相手が諦めてしまった場合も、若気の男は勝った事にしていた。

その日も、後部座席にヤルノとルーチョ、F-3レーサーのユージニオ・ヴィスコ。
助手席にはF-1へステップアップ直前のフランコ・スカピーニを乗せ、開通したばかりの御殿場右コースを富士スピードウェイ目指し目一杯飛ばしていた。
タイヤが唸りをあげる度に、バックミラーに映る世界王座に就いたばかりの若きカートチャンピョンは尊敬に満ちた眼差しで男の背中を見つめているに違いないと男は感じていた。

そんなに簡単な世界ではない事は、仕事を通じて良く理解しているつもりだったが、
レンタルの110サニーで冨士フレッシュマンを数レース戦っただけの男には、ライバルと同コンディションの車さえ手に入れば絶対にチャンスをモノにして見せる!という空自信だけがあった。
雑誌社の企画で始まった挑戦も、予算が続かず中途で打ち切りになった。
学生だった男にはスポンサーになれるような裕福な家には生まれておらず、また、アルバイトをしてでも!というハングリーさにも欠けていた。
男が優れていたのは蛮勇だけだったのかもしれない。
愛読書である大判のオートスポーツの誌面を飾っていた当時のチャンピョン候補は、クレイ・レガツォーニから王座を
奪い取ろうとしていたオーストリアンで、ミニによるヒルクライムレース出身の前歯がビージーズを思い起こさせるニキ・ラウダだった。

自分にだってチャンスさえあれば、、、世界中の運転好きが一度は思い描いた幻想だ。

後ろから男の走りに気を廻らせている、”チャンス”を掴んだ若きチャンピョンに男が勝っている事は只ひとつ。
公道での運転免許証を持っている、という事だけだった。
このセナ似の若者には、レースにおける幸運を持ったシンデレラボーイだと確信させられる”何か”が感じられた。
もしかしたら、この若者ならば・・・・
しかしこの時はまだ、若者に訪れる試練を男は想像すらできなかった。

text by Masa Kitawaki

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